BENTLEY CHRONICLE PART1 : #002

BENTLEY CHRONICLE PART1 : #002

By SAWAMURAMAKOTO

BENTLEY CHRONICLE PART1

W.O.ベントレーとベントレー・ボーイズの時代 #002

クリクルウッド工場から生み出されたばかりの3リッター。この時代の常で、ローリングシャーシーの販売なので、この状態で一応の完成である。この工場からは3048台のベントレーが誕生した。

 

■10年間に創始者自らが手がけた3048台のベントレー

 

 W.O.ベントレー自身が設計・開発を手掛け、1921年から31年までのわずか10年、総計3048台のみが生産されたベントレー車たちは、生みの親の名を取って“W.O.ベントレー”、あるいは本社工場所在地の地名から“クリクルウッド・ベントレー”と呼ばれる。この時代に生産されたすべての車輌には、ベントレー社による5年保証が付けられていたが、このことからも、W.O.がいかに自社のクルマの信頼性と堅牢さに自信を持っていたかが伺われるだろう。
 ベントレーにとって記念すべきデビュー作である“3Litre(3リッター)”は、パワーユニットに重きを置くW.O.の意向が旗幟鮮明に生かされたクルマとなっていた。その4気筒エンジンは、当時最新の航空エンジン技術がふんだんに投入されたクロスフローのSOHC。バルブ本数は気筒あたり4本とされた。ボア×ストロークは80×149mmで、排気量は2996cc。二基のSU式キャブレターとの組み合わせで65HPのパワーを発生、80mph(約128km/h)以上の最高速をマークした。加えて、点火システムも航空機エンジン仕込みの2系統のマグネトー式とされて、持ち前の信頼性をさらに高めていた。
 一方シャシーについては、かつてグレート・ノーザン鉄道で見習いエンジニアとして学んだ経験からか、コンベンショナルで堅牢な造りを旨としていた。サスペンションは前後とも半楕円リーフによるライブアクスルで、これも当時のセオリーに従ったものである。しかし、頑強なラダーフレームゆえの剛性の高さ、そして各部に上質なマテリアルと入念な組付けを行ったことから、ロードホールディングやハンドリングにも優れていたほか、前輪ブレーキを持つモデルでは制動力の面でも高水準を示し、その後の高級スポーツカーにとっての指標となった。また、1923年には圧縮比アップと気化器の大径化で80HPにパワーアップした“スピードモデル”も用意された。3Litre、特にスピードモデルはル・マンをはじめとするヨーロッパ中のレースで活躍する一方、ヴィンテージ期のイギリスを代表するスポーツカーとしても、当時の裕福なモータリストたちから大好評をもって迎えられた。デビュー当時の販売価格は、ローリングシャシー状態で1050ポンドと極めて高価だったが、それでも1929年にカタログから消えるまでに、スピードモデルを含めて1622台という、満足すべき台数の3Litreが生産されたのである。
 しかし、やはり高級車であるベントレーには、さらなるパワーとスムーズネスを求めるリクエストが強かったようで、1926年には6気筒6.6リッターエンジンを搭載する“6 1/2Litre”が発表された。このエンジンは、3リッターの基本設計を踏襲したまま6気筒化したもので、ボア×ストロークは100×140mm。総排気量は6597ccで140HPを発生した。当初は4気筒のまま排気量拡大を考えていたとされるが、当時の高級車市場で絶対的な評価を得ていたR-Rファンタムの影響から、6気筒化に踏み切ったとされている。デビュー当初の6 1/2Litreは、当時のベントレー・カスタマーの中でも、3Litreでは耐えられない、重い豪奢なコーチワークを要求する顧客の要望に応えるためのモデルとされていた。しかし、そこは硬派で鳴らしたベントレーのこと、6 1/2Litreのデビュー直後には、大径化したツインSUと5.3:1まで高められた圧縮比を与えられて180HPを発生するスーパーバージョン、“スピードシックス”も追加された。
 さらに翌1927年になると、新世代の4気筒モデル“4 1/2Litre”が追加される。3Litreと同じ、直列4気筒SOHC16バルブエンジンを持つが、その内容は6 1/2Litre用の6.6リッター6気筒から2気筒を省いたものに近く、100×140mmのボア×ストロークから4398ccの排気量を獲得。パワーは110HPとされた。そして1929年には、4 1/2Litre“ブロワー”が登場する。傑作4 1/2Litreにヴィリヤーズ社製のルーツ式スーパーチャージャーを装着、175~180HPを発生するスーパーバージョンだ。エンスージァストの間では“ブロワーベントレー”とも呼ばれ、W.O.ベントレーの代名詞的とも言われるモデルである。ところがこのアイディアは、ベントレー・ボーイズの主要メンバーで、ル・マン24時間レースに於ける優勝経験も豊富な“ティム”・バーキンの主導によるものであり、実はW.O.自身はスーパーチャージャーの装着には余り積極的ではなかったとのエピソードも残る。その最大の目的たるル・マンの戦績こそ、“身内”であるウォルフ・バーナート会長のスピードシックスに阻まれて優勝には至らなかったが、ル・マン以外のレースでは目覚しい成果を挙げることができた。
 さらに1930年には、ベントレー史上最大のモデルである“8 Litre”がデビューする。8 Litreのエンジンは、6 1/2Litre用ユニットのボアを110mmに拡大した6気筒で、7983ccの排気量から220hpを発生した。8Litreには、いかにもベントレーらしいトゥアラーのほかにも、豪壮なスポーツサルーンやリムジンなどが組み合わせられ、従来のベントレーに欠けていた顧客層への希求力が見込まれていた。しかし、その前年の大恐慌に伴う世界的な不況のため、ベントレー社の経営状態はもはや回復することができないレベルにまで落ち込んでいたのである。

※「フライングB No.001」(2008年刊)に掲載された記事に加筆修正しました。 掲載された情報は、刊行当時のものです。

1924年のル・マン24時間レースにて総合優勝、凱旋を果たしたジョン・ダフ/フランク・クレメント組と2077.340kmを走りきった3リッター。ベントレーのル・マン伝説はこのとき始まった。