HISTORY -- 1960 BENTLEY S2 CONTINENTAL SALOON BY H.J. MULLINER

HISTORY -- 1960 BENTLEY S2 CONTINENTAL SALOON BY H.J. MULLINER

By SAWAMURAMAKOTO

戦後のベントレーを代表する"サイレント・スポーツカー" Rタイプ・コンチネンタルの後継車として送り出されたSタイプ・コンチネンタルは、現代にまで続く"コンチネンタル"の名を確固たる存在に押し上げたベントレー史に残る名車である。

text:Hiromi TAKEDA 武田公実
取材協力:ワクイ・ミュージアム

ベントレーの大黒柱
 2003年にデビューした現行型コンチネンタルGTは、その後4ドアサルーンのフライング・スパー、ドロップヘッド・クーペ版のGTC、そしてそれぞれのスープアップ版たる"スピード"。さらに2009年には軽量化を加えた超弩級バージョン"スーパースポーツ"を加えて、魅惑の一大ラインナップを築いている。これら21世紀のコンチネンタル・ファミリーが展開してきたサクセスストーリーは、それまで名声と実力の割には一部の限られたコニサー向け、ありていに言ってしまえば若干マイナーな感もあったベントレーを、超高級車マーケットに於けるメジャーブランドへと一気に押し上げるに至った。すなわち"コンチネンタル"の名は、今やベントレーの屋台骨を力強く支える大黒柱となっているのだ。
 ベントレー・コンチネンタルの開祖となったのは、本誌創刊号のこのコーナーでもご紹介したRタイプ・コンチネンタルである。このモデルの成功によって、第二次大戦後の一時期不在となっていた"サイレントスポーツカー"の灯は大いなる復活を遂げることになった。そして、今回ご紹介するSタイプ・コンチネンタルが、その灯を確実に受け継いだことで、"コンチネンタル"の称号はベントレーの代名詞とさえ呼べるものへと昇華するのである。

栄誉の継承者
 生産台数こそ200台+αと少数に終わったものの、誰もが認める傑作車となったベントレーRタイプ・コンチネンタル・スタンダードスティール・サルーンがSタイプへと進化を遂げたのちも、ベントレーの栄光を体現したスポーティモデルは当然ながら継承され、標準のSタイプ・サルーンと同じ1955年春から正式リリースされることになった。それが、"Sタイプ(S1)・コンチネンタル"である。
 S1コンチネンタルのエンジンは、スタンダードSタイプと共用の直列6気筒Fヘッド4887cc。圧縮比を6.6:1から7.25:1までアップさせることによって若干のパワーアップは施されているものの、シャシーはスタンダードSタイプと共通。しかも、翌'56年には圧縮比を8.0:1に上げられるものの、その1年後の'57年にはスタンダードSタイプも同じく8.0:1とされたことから、メカニズム面での格差は事実上なくなってしまう。とはいえ、軽量かつ空力的なボディを持つコンチネンタルは、当時としては充分に高性能GTと言えるクルマであった。
 Rタイプ・コンチネンタルでは、一部の例外を除いたほぼ全車にH.J.マリナー製の魅力的なプレーンバッククーペが架装されたが、Sタイプ・コンチネンタルになると、Rタイプ時代のそれを若干モダナイズし、前後フェンダーのスロープを水平に伸びる形状としたH.J.マリナー製プレーンバッククーペのほかにも、ノッチバックスタイルのパークウォード製スポーツクーペ&ドロップヘッド・クーペなど、ボディのバラエティが格段に増やされることになる。また、4ドアながらスタイリッシュなクーペスタイルを持つH.J.マリナーの"フライング・スパー"も初めて製作されることになった。ちなみに、現代のベントレー・コンチネンタルの4ドアサルーンにも継承されているペットネームの"フライング・スパー"とは、"飛ぶ拍車"という意味。これは、当時H.J.マリナー社でセールスディレクターを務めていたアーサー・ジョンストーンの一族のエンブレム(紋章)に因んで名づけられたものとの伝承が残っている。
 6気筒時代のSタイプ・コンチネンタルは、プレーンバッククーペを含むH.J.マリナー製ボディが218台、パークウォード製ドロップヘッド・クーペが185台、ジェームズ・ヤング製ボディが20台、フーパー製ボディが6台、そしてスイスのカロッセリー・ヘルマン・グラバー製と、フランスのカロジエ・フラネイ製がそれぞれ1台ずつの、合わせて431台が製作されたという記録が残っている。

コンチネンタルとV8の初顔合わせ
 1959年の秋、R-Rシルバークラウド/ベントレーSタイプが、そのデビュー以前からの念願であった新設計のV8ユニットを搭載することで"シルバークラウドII/S2"へと進化を遂げると、同時にSタイプ・コンチネンタルも、"S2コンチネンタル"へと移行することになった。そのパワーユニットは、S2サルーンと共用のL410型V型8気筒OHVの6230cc。R-R/ベントレーの自動車用エンジンでは初めてとなる総アルミ系合金製である。このユニットは、ロールス・ロイス社航空機部門出身のエンジニア、ハリー・グリルズがクラウド/Sタイプ系の開発主任になったことでもたらされたもので、航空機用レシプロエンジンの技術を引用したものとされている。
 ヘッド/ブロックともにアルミ化されたことで、シリンダーが2気筒分多く、排気量も大幅に拡大されていたにもかかわらず、新しいV8ユニットは、従来の直列6気筒Fヘッド4.9リッターエンジンよりも、ごくわずかではあるが軽量に仕立てられていた。とはいえ、その総重量は400kg以上にも達する超ヘビー級であることに変わりはない。キャブレターは、S2サルーンと同じSU製HD6型1 3/4インチがツインで装着されており、圧縮比も8.0:1と、S2サルーンと共通である。そのパワースペックについては、この時代のR-R社の伝統に従って未公表。有名な常套句、「必要にして充分」とコメントするのみだったが、当時の英国の自動車専門誌では200psを若干超えるていどのものと推測していたようだ。
 RタイプやSタイプなどの6気筒時代のコンチネンタルでは、スタンダード・サルーン用ユニットをベースに、キャブレターの大径化や圧縮比アップなどで若干ながらパワーアップが施されていた。しかし、S2コンチネンタルでは総アルミニウムで架装されるスペシャルボディによってもたらされた軽量化を見越してファイナル・ギアレシオを速めた以外は、スタンダードのS2と何ら変わらないスペックとなってしまっていた。またトランスミッションについても、フロア右側にシフトレバーを持つマニュアル4段がS2サルーンと同様に廃止されることになり、コラムシフトのハイドラマティック4段A/Tのみとされていた。
 それでも、200psを超えると推測されたマキシマムパワーは、排気量も相まってFヘッド6気筒時代を大幅に上回るもの。軽量なだけでなく、エアロダイナミックス性能でも格段に優れるアルミ軽合金製のコーチワークボディをハイスピードで走らせるには充分なものだった。また、ハイギアード化されたファイナルレシオの効力によって、空気抵抗の少ないボディが架装されたクルマは、実に200km/hに近いマキシマムスピードを達成したとされている。そのアピアランスは極めてゴージャスものながら、その性能は真のGT、グランドトゥアラーと呼ぶに相応しいもの。つまり、Rタイプ・コンチネンタルによって築かれた伝統と美風は、S2コンチネンタルでも完全に継承されていたことになるのである。

魅力的なコーチワークボディたち
 S2/コンチネンタルでは、H.J.マリナーによるノッチバックの2ドアサルーン、一直線に伸びたショルダーラインから"ストレートスルー"と呼ばれたパークウォード製の2ドアクーペ/ドロップヘッド・クーペ(のちのS3時代には4灯のヘッドランプが与えられ、有名な"チャイニーズ・アイ"となる)など、コーチワークボディのバリエーションが各段に増やされることになった。中でも、今回の主役であるH.J.マリナー製2ドアサルーンはその細いピラー形状から"ハードトップ"と呼ばれ、'92年にデビューしたベントレー・コンチネンタルRのデザインに大きな影響を与えたという説も存在するなど、S2コンチネンタルを代表するボディとなった。
 加えてS2コンチネンタル以降は、特に北米大陸をはじめとするマーケットのリクエストに応えるかたちで、本来ならば純粋なスポーティバージョンであるはずのコンチネンタル系でありながらも4ドアボディのウェイトが増え、前述したH.J.マリナー製の"フライング・スパー"(S1時代からのボディを踏襲)や、それに触発されたと思しきジェイムズ・ヤング製4ドアスポーツサルーンも製作されている。
 S2コンチネンタルの総製作台数は388台。各コーチビルダー別の内訳は、H.J.マリナー製の2ドア・ハードトップ&フライング・スパーが223台(221台説もあり)。パークウォード製ドロップヘッド・クーペが125台。ジェイムズ・ヤング製スポーツサルーンが41台。加えて、フーパー製の4ドアサルーンがワンオフで製作されたと記録されている。これは、スタンダードのS2サルーンの約50%アップという高価なプライスを考慮すれば、充分なヒットと言える数字だったと言うべきであろう。

後継モデルたちの興亡
 1962年、R-Rシルバークラウド/ベントレーSシリーズは、4灯ヘッドライトを特徴とする最終進化型、クラウドIII/ベントレーS3に移行することになった。もちろん、S3でもコンチネンタルはラインナップされたが、S3コンチネンタル以降は、従来各コーチビルダーに委ねていた最終アセンブルを、R-R社クルー工場の生産ラインで行うことになった。
 S3コンチネンタルのボディの大多数は、既にロールス・ロイス社傘下となっていたパークウォードとH.J.マリナーが合併したことで1963年に設立された"マリナー・パークウォード"社が担当。その製作台数は旧パークウォード系の"チャイニーズ・アイ"193台に加えて、旧H.J.マリナー系"ハードトップ・クーペ"&"フライング・スパー"が合わせて98台の計291台であった。また、このほか旧ジェイムズ・ヤングが20台、グラバーが1台で、S3コンチネンタルは総計312台が製作されるに至った。
 ロールス・ロイス・シルバークラウドIII/ベントレーS3は、1965年にフルモノコック・ボディを持つシルバー・シャドウ/ベントレーTシリーズにあとを譲ってラインナップを去ることになるのだが、それは同時に戦後R-R/ベントレーの伝統的スタイルがフィナーレを迎えてしまったことを意味しており、"コンチネンタル"のネーミングを持つスポーティモデルも、一旦は消滅してしまうことになった。しかし、コンチネンタルの血脈までが絶やされることはなく、その後'67年にデビューしたベントレー"T"のマリナー・パークウォード製2ドアサルーン/コンバーティブルと、その後継車であるベントレー・コーニッシュに、その精神は継承されることになる。その後、1981年にはR-R版と同名だったコーニッシュの名称から伝統のコンチネンタルに戻され、一時はR-Rに飲み込まれかけていたベントレーの独自性が、再び歩みを始めるに至ったのである。

※「フライングB No.003」(2010年刊)に掲載された記事に加筆修正しました。
掲載された情報は、刊行当時のものです。