BENTLEY CHRONICLE PART1:#005

BENTLEY CHRONICLE PART1:#005

By SAWAMURAMAKOTO

BENTLEY CHRONICLE PART1

W.O.ベントレーとベントレー・ボーイズの時代 #005

1927年のル・マンで、3年ぶりの総合優勝を果たしたベンジャーフィールド博士/サミー・デーヴィス組のウイニングカーを、祝勝会場たるロンドンのサヴォイ・ホテルに搬入する有名な写真。

■3台体制で乗り込んだがタフなレース展開に苦しむ

 

再び挑戦者となってしまった1926年のル・マン。雪辱を誓った3台体制でル・マンに乗り込んだベントレー・ワークス+ベントレー・ボーイズだが、この年も彼らにとってはタフなレースが待ち受けていた。
 まずは72周目に、デューラー/クレメント組がエンジンのバルブに起きたトラブルでリタイア。次いで105周目には、トミー・システスワイト/クライヴ・ギャロップ大尉組の3Litreも、同じくバルブのトラブルによって戦列を離れることになった。そして唯一生き残り、3位で走行していたサミー・デーヴィス/ベンジャーフィールド博士組も、ゴールまであと30分を切った138周目にクラッシュ、リタイアを余儀なくされてしまったのだ。
 この年の優勝車は前年に引き続いてロレーヌ・ディートリッヒB3-6。同車の平均スピードは、ついに100km/hの壁を越える106.350km/hをマークした。もとより耐久レースであるル・マンに、スピードレースとしての側面も見え始めたのである。

■4年ぶりの勝利を獲得した1927年シーズン
 サルト・サーキットに於ける度重なる屈辱を晴らすべく、ベントレー・ティームは1927年のル・マンに、この年に発表されたばかりの4 1/2Litreのプロトタイプを、ほかの2台のワークス3Litreとともにワークスエントリーさせた。バーナート会長からこの4 1/2Litre1号車を託されたクレメント/カリンガム組は、8分46秒というファステストラップを叩き出す素晴らしいペースでレースをリードするが、35周目の“メゾン・ブランシュ”コーナーにて発生した、トップグループを走る3台のワークス・ベントレーすべてが絡むアクシデントに巻き込まれて、リタイアを余儀なくされてしまう。
 一方、同じ事故に巻き込まれた2台の3Litreのうち、アンドレ・ド・エアランガー男爵/デューラー組はリタイアを喫したのだが、残る1台、ベンジャーフィールド博士/デーヴィス組は、歪んだシャシーのままで果敢にレースを継続。ベントレーにとっては4年ぶりとなる総合優勝を果たした。

■オールド・マザー・ガンによる2年連続優勝
 1928年のル・マンに、ベントレー・ワークス・ティームは3台の4 1/2Litreをエントリーさせた。その内の2台は完全な新車。それぞれクレメント/ベンジャーフィールド博士組、“ティム”バーキン/ジャン・シャサーヌ組に託された。そして残る1台は、前年の“メゾン・ブランシュ”に於ける事故のダメージを修復し、なんとか復帰を遂げた4 1/2Litre第1号車である。2台の新車をサポートするかたちでエントリーしたこのリビルド車に、ベントレー・ティームのメンバーやベントレー・ボーイズたちは、愛情を込めて「オールド・マザー・ガン(Old Mother Gun)」というニックネームを進呈した。
 この年は、ウォルフ・バーナートが“オールド・マザー・ガン”のドライバーとしてル・マン初挑戦を果たした。また、相棒となったバーナード・ルービンにとっても初めてのサルトであった。バーナートはベントレー社のトップであり、本人が望めば最新モデルを使用する特権もあったのだが、彼はティームに複数のマシーンがあれば、必ず最も不利な1台を望んで引き受けるような男だったのだ。ところがこの年のサルトでは、期待された2台の新車が次々とトラブルに見舞われてしまう。2台とも、振動でシャシーにクラックが入ってしまったのだ。しかも、ただ1台のみ生き残った“オールド・マザー・ガン”にも同じフレームトラブルが忍び寄っていたのだが、バーナートは勇猛果敢なドライブを続行して、この年のライバルとなったスタッツ・ブラックホークとともにコースレコードを次々と書き換える激しいスピードレースを展開。そして、ルービンの適切なサポートも相まって、見事ベントレーにとっては2連勝となる総合優勝を飾るに至った。

※「フライングB No.001」(2008年刊)に掲載された記事に加筆修正しました。 掲載された情報は、刊行当時のものです。

1928年ル・マン24時間レースに臨んだ41/2リッター“オールド・マザー・ガン”。前年のクラッシュから修復されたこのマシーンは、バーナート/ルービン組のドライブでこの年の優勝をさらった。