HERITAGE——<br>1924 W.O.Bentley 3 Litre Speed Model Vanden Plas

HERITAGE——
1924 W.O.Bentley 3 Litre Speed Model Vanden Plas

By SAWAMURAMakoto

A Story of Jiro Shirasu and his XT7471
白洲次郎と彼の[XT7471]について——

白洲次郎が愛したベントレー[XT7471]は、英国で日本人が初めて手に入れたベントレーでもあった。
ここでは、今、日本に安住の地を見つけようとしている[XT7471]の数奇な運命を辿ってみたい。

text: Hiromi Takeda 武田公実
Photo: Keisuke MAEDA 前田恵介/Hiroshi Hamaya 濱谷 浩
Translation: Mako Ayabe and Michael Balderi

 

白洲次郎という男

 今やわが国は、空前の「白洲次郎ブーム」と言ってもいいかもしれない。しかしブームという見方は、必ずしも正しいとは言えまい。戦後の日本を再構築し「昭和の鞍馬天狗」と呼ばれた活躍から約半世紀を経て、ようやく正当な評価が為されたと見るべきだろう。言わば、時代が“やっと”白洲次郎に追いついたのである。

 今さら説明の必要など無いかもしれないが、白洲次郎は、のちに首相となる盟友・吉田茂に請われてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)との折衝に当たった人物。第二次世界大戦の敗戦で、事実上の壊滅状態にあった我が国を、独立国としての尊厳を保ったまま立て直すとともに、戦後の飛躍的な復興の基盤を作った功労者の一人である。

 当時のGHQ幹部たちが次郎に抱いた印象は「従順ならざる唯一の日本人」。たとえ占領下にあっても、日本人としての尊厳にこだわったのだ。あるとき、GHQ高官の一人からケンブリッジ仕込みのキングスイングリッシュを褒められた次郎は、ニヤリと笑って「あなたの英語も、もう少し勉強なされば一流になれますよ」と皮肉たっぷりに応えたという。そして日本国憲法の成立や通産省(現在の経済産業省)の発足にも深く関わったことから、彼自身の政界入りを求める声も強かったのだが、戦後体制の成立を見届けるとキッパリと身を引いた。そしてその後は生涯在野を貫き、東北電力や大沢商会などでトップを務める一方、いわゆる“一言居士”としても存在感を示したのである。

 加えて、英国ケンブリッジ大学に留学した際に身につけた独自のセンスとダンディズムは、彼のファッションにも明確に反映。生涯に亘ってサヴィル・ロウ仕立てのスーツやジャケットを愛用した一方、一説には日本人で初めてジーンズを履いた男とも言われている。さらに80歳を越えた最晩年には、親交のあったイッセイ・ミヤケに請われて、同社のメンズ服の写真モデルも引き受けている。そんな次郎は、「歴史上の人物で最もカッコいい日本人の一人」と称され、今や男女を問わず日本中のファンからリスペクトされているのだ。

 しかし、我々クルマ好きを何より魅了してやまないのは、彼の「オイリー・ボーイ」な側面だろう。その両手はもちろん、顔までエンジンやギアボックスから撒き散らされるオイルまみれになって自動車と格闘した次郎たちのことを、当時の友人たちは半ば呆れ気味にそう呼んでいたのである。

 

ベントレー3リッターとの出会い

 神戸一中に在学していた17歳のときから、“ペイジ・グレンブルック”というアメリカ製中型車を買い与えられて乗り回していた次郎は、英国にて当時の世界最先端のモータリズムに触れたことから、クルマとモータースポーツの世界にますますのめりこむことになった。そんな彼の目に留まったのが、当時のモータースポーツ・シーンにて大活躍していた“ベントレー3リッター”である。ベントレーは、現代でこそソフィスティケートを極めたイメージが強いが、まだ開祖W.O.ベントレーが自ら製作していた当時の3リッター、特に次郎が愛用していた“スピードモデル”は、恐ろしく速い代わりに、ワイルド極まるスパルタンなスポーツカー。ありていに言ってしまえば、公道を走行できるレーシングカーであった。つまり、神戸一中時代の旧友から「洗練された野蛮人」と称されていた次郎には、まさにうってつけのクルマだったのだ。しかも次郎は、現在のF1に相当するグランプリレースにも参戦可能なブガッティT35まで入手。ロンドン近郊ブルックランズなどに自走で通いつめ、サーキット走行を楽しんでいた。

 1921年に正式生産が開始されたベントレー3リッターは、W.O.ベントレーにとっては処女作に当たるモデル。詳しい解説については本誌のヒストリーページに譲るが、2996ccから65HPを発生する水冷直列4気筒SOHC16バルブを搭載、80mph(約128km/h)の最高速をマークする、当時としてはかなりの高性能車。ヴィンテージ期初頭の英国製スポーツカーの中でも最高傑作と称されるモデルだった。さらにデビューから2年後となる'23年には、エンジンを80HPまでパワーアップ、90mphオーバーのスピードを獲得したハイパワー版、“スピードモデル”も追加されている。

 次郎が1924年に購入したベントレー3リッターは貴重なスピードモデルで、同年5月に製作された1台である。もともとはホイールベース9フィート(約2.7m)のショートシャシーに、ヴァンデン・プラ製2シーター・トゥアラーボディの組み合わせだったという。シャシーNo.は#653。そして購入時の登録ナンバーは、現在もそのまま残されている[XT 7471]である。このクルマは、ル・マン24時間などのビッグレースにも果敢に挑んだ裕福なアマチュアドライバー集団、“ベントレー・ボーイズ”のリーダー格で、そしてロンドン市内で自らベントレーの代理店「ジョン・ダフ商会」を営んでいたジョン・ダフ大尉から購入したものだった。おそらくベントレー社とジョン・ダフ商会との間に何らかの契約があったためと推測されるが、[XT 7471]は一旦ジョン・ダフ商会が名義人となって、'24年5月24日に登録されている。しかし、今なお残されているベントレー社の記録でも、あるいはベントレー・ドライバーズ・クラブ(B.D.C.)のレジスターでも、[XT 7471]のファーストオーナーが「Jiro Shirasu」であると記されている。

 ちなみに、次郎にこのベントレー3リッターを納めたジョン・ダフは、そのわずか3週間後となる6月14~15日に開催された第2回ル・マン24時間耐久レースに、自身の愛車であるベントレー3リッターとともにエントリー。ベントレー社実験部門チーフテスターのフランク・クレメントとのコンビで見事総合優勝を果たすことになる。身近な存在であるダフ大尉が達成した目覚しい戦果に、弱冠22歳の次郎が熱狂したのは想像に難くないだろう。こうして白洲次郎は、モータリズムとベントレーの世界に傾倒していったのである。

 

ベントレーと親友と“プリンシプル”

 名門ケンブリッジ大学に通う東洋出身の一学生が、ベントレー3リッターにブガッティT35という、現代の感覚からすればプライベートジェット機にも相当するほどの超高級スポーツカーを2台も所有して乗り回す。その事実だけをとらえて見れば、驕慢極まりない放蕩息子の度を超えた道楽と受け取られてしまっても仕方のないことかも知れない。しかし若き日の白洲次郎は、周囲の誰もが羨望するベントレーとブガッティとの蜜月の中で、のちの彼の生き方にも多大なる影響を与えるような、大切な“宝”を獲得することになるのだ。

 宝の一つ目は、生涯の友。7世ストラトフォード伯ロバート・セシル・ビング(愛称ロビン)である。ひょんなきっかけから次郎と知り合ったロビンだが、共通の熱狂の対象であるベントレーとブガッティが、二人のオイリー・ボーイの関係を一気に接近させることになった。そして彼らは、ケンブリッジはもちろんロンドン近郊にあったビング邸、そしてブルックランズで四六時中ともに過ごしたほか、1925~26年のクリスマス休暇には、二人で次郎の愛車ベントレーに乗って、イギリス~フランス~スペイン~ジブラルタルに至る“グランドツアー”を敢行した。

 二人のオイリーボーイズは、このときの旅でベントレーの聖地、ル・マンも訪ねている。そして、これらの胸躍るような冒険ツアーをともにしたことで、彼らは本当の親友となることが出来たのである。その交流は、日英両国が敵として戦った第二次大戦中には一旦途切れるものの、二人の絆までが揺るがされることは無かった。そして、二人が相次いで鬼籍に入った1980年代まで継続されることになるのだ。

 次郎の得たもうひとつの宝は、揺るぎない信条。つまり、彼一流の“プリンシプル”である。そして、これも獲得のきっかけの一端はベントレーが果たしたと思われる。前述したように、次郎はジャック・ダフから3リッター・スピードモデルを購入した縁もあって、しばしばジャック・ダフ商会やベントレー・ボーイズのメンバーが主宰するパーティーにも招待されたという。このような経緯から、当時のクルマ好きな若者たちにとっては、まさにカリスマ的存在であったベントレー・ボーイズとの交流を持つ貴重な機会を持てたのだ。階級社会の英国で、普通ならば遠巻きに見るのが精一杯なベントレー・ボーイズと親しく交流したことが、若き次郎にとって鮮烈な体験となったのは想像に難くない。そして、彼らとの交流は、持てる者の為すべきこと、“プリンシプル”という言葉とともに次郎が常々口にしたという“ノブレスオブリージュ”の精神を学ぶのに大いに役立ったに違いない。もとより竹を割ったような正義感と、強い意思を持っていた次郎だが、親友ロビンやベントレー・ボーイズの面々をはじめとする、英国の伝統的な上流階級との「水魚の交わり」から、自らのプリンシプルを確立したかに思われるのである。

 しかし、そんな輝かしい次郎の青春時代には、あるとき唐突にピリオドが打たれることになる。父・文平の経営する「白洲商店」が1928年に金融恐慌のあおりで倒産。次郎はイギリスでの留学生活を取りやめて、日本に帰国する選択を余儀なくされてしまうのだ。そしてその17年後、敗戦によって灰燼に帰した祖国日本を再建するため、彼は縦横無尽の奮闘ぶりを見せたのは先に述べた通り。それはまさに、次郎の持論である“ノブレスオブリージュ”を果たすかのような大活躍であった。

 

その後の[XT 7471]

 経済的なバックボーンを失って母国に帰国することになった白洲次郎は、当然のことながら愛車ベントレー3リッター[XT 7471]、およびブガッティT35を英国内で売却せざるを得なくなってしまった。この時、[XT 7471]を購入したセカンドオーナーについての情報は不明なのだが、それまでの次郎の人脈を勘案すれば、当時の“ベントレー社交界”を構成する愛好家に譲渡されたと見るのが自然だろう。その後の[XT 7471]は、複数のオーナーのもとを渡り歩くことになるのだが、その歴代オーナーのすべてがベントレー・ドライバーズ・クラブ(BDC)のメンバーであった。B.D.Cと言えば、1936年にワンメイクのオーナーズクラブとしては世界で初めて結成され、21世紀の現代に於いても絶対的なプレステージを保つ名門クラブ。次郎の愛車を引き継いできたのは、地位・情熱ともに“然るべき”エンスージァストだったのだ。

 そして1960年代のある時期に、[XT 7471]は当時のオーナーのもとで大規模なレストレーションを受けることになった。加えてそのレストアの際には、エンジンを現在の41/2リッター用ユニットに換装したほか、ボディも新車時以来のヴァンデン・プラ製2シーター・トゥアラーから、同じヴァンデン・プラ製“ル・マン”スタイルの4シーター・トゥアラー仕様に仕立て直すなどのモディファイが施されて、現在の姿へと変貌した。また、前世紀末頃にはヒストリックカー・レースに参加するため、4.4リッターのエンジンにさらなるチューンアップが加えられ、スタンダード41/2リッターの110HPから大幅にパワーアップしているという。

 今世紀に入って、前オーナーが高齢のためこのベントレー3リッターを手放そうと決意したとき、戦後に白洲次郎と関わりを持った複数の日本企業が、購入を打診してきたという。しかし、その名のとおりベントレー“ドライバーズ”クラブのメンバーであり、「W.O.時代のベントレーは展示しておくだけでは意味がない」と考えた前オーナーは、自らがドライビングを愉しむことを前提とした、真性のエンスージァスト以外には譲渡したくないという強い意向を持っていたという。そこで、新たなオーナーとして白羽の矢が立ったのが、わが国を代表するだけでなく、世界的に見ても一流のベントレー・コレクター、そしてもちろん自身も英国B.D.C.のメンバーである涌井清春氏だった。やはりB.D.C.メンバーである英国人エージェントを介して、この日本の“宝”とも言うべきベントレー3リッター[XT 7471]を入手するに至ったのである。

 このような経緯を経て2003年の末、ベントレー3リッター[XT 7471]は、白洲次郎が新車として購入してから実に79年目にして、日本の地を踏むことになった。翌2004年6月には、「ウッディパーク鹿沼ステージ2004」にて、小林彰太郎氏がステアリングを握って国内イベントデビューを果たしている。そして日本上陸から4年目となる今年、涌井氏が長年の夢をかなえるべく埼玉県加須市内にオープンするベントレー&R-Rのプライベート博物館「ワクイミュージアム」に納められる一方、次郎の孫の白洲信哉氏が2ndドライバーとなって、国内のロードイベントに参加することも決定している。

 こうして、白洲次郎の愛したベントレー3リッターは、同じく次郎が愛した母国にて、新たなストーリーを刻み始めたのである。

 

※「フライングB No.001」(2008年刊)に掲載された記事に加筆修正しました。掲載された情報は、刊行当時のものです。

 

 “フライングB”ないしは“ウイングドB”とも呼ばれるベントレー伝統のエンブレム。センターのBマークが赤いのは、高性能バージョンである“スピードモデル”の証である。

エンジンは、1960年代に行われたフルレストア時に“41/2リッター”用ユニットに換装された。前世紀末にはレースにも参加していたため、出力は標準の110HPを大幅に上回る。 

ル・マン仕様に改装されているため、シート形状は次郎が所有していた当時とは異なるバケット型。だが、上質なレザー表皮や同じ素材の極太ステッチなど、実に魅力的なものだ。