BENTLEY CHRONICLE PART1 : #001

BENTLEY CHRONICLE PART1 : #001

By SAWAMURAMAKOTO

W.O.ベントレーとベントレー・ボーイズの時代 #001

ベントレーの歴史を辿る“ベントレー・クロニクル”。
第1回目となる今回は創始者であるW.O.ベントレーの成り立ちと、理想のスポーツカーを造り出すべく産み出されたベントレーというブランドの創世記にスポットをあてる。
1919年に登場した3Litreに始まり、1931年登場の4Litreまでのわずかな期間で彼らはレーシングフィールド、特にル・マン24時間耐久レースで大活躍を果たした。
そして、その4年連続、通算5回優勝という大記録と、“ベントレーボーイズ”と呼ばれた若者たちの記憶は今なお人々の心に深く刻まれている。

text:Hiromi TAKEDA 武田公美
協力:ベントレーモーターズジャパン

Walter Owen Bentley

1910年代初頭、W.O.ベントレーが20代の頃、彼はモーターサイクル・レースに熱中し、アイル・オブ・マン・ツーリスト・トロフィーなどのレースにも出場していたという。その後DFPのワークス・ドライバー、海軍でのエンジニアを経て、彼はベントレーという自らの名を冠したクルマを産み出す。後にベントレーがレーシングフィールドで活躍することになるのは、彼の出自を考えればごく自然な成り行きであったともいえる。 

 

■わずか31歳のエンジニアが興した理想のスポーツカー造りのための会社

今を去ること89年前となる1919年8月、ロンドン近郊クリクルウッドに創立されたベントレー・モーターズ(Bentley Motors)社は、W.O.ベントレーという、きらめくような才気とモータースポーツに懸ける情熱に溢れた青年エンジニアが、己が理想のスポーツカーを創ることだけを目的として、わずか31歳の若さで興した自動車メーカーである。
 1888年9月16日、ロンドンの裕福な家庭に9人兄弟の末っ子として生まれた“W.O.”ことウォルター・オーウェン・ベントレー(Walter Owen Bentley:1888~1971年)は、幼少時代から大人しく温厚な性格で、機械いじりが大好きな少年だった。最初に彼を魅了した機械はカメラ。当時はまだ非常に贅沢な趣味であった写真撮影に没頭していたという。そして、20世紀初頭の富裕かつ進歩的な若者の多くがそうであったように、当時の最先端テクノロジーの結晶であるモーターサイクルや4輪自動車に強く惹かれてゆくことになる。1905年、名門校クリフトン・カレッジにて正規教育を修めたW.O.は、これも幼少期の彼を魅了した当時の最先端テクノロジー、鉄道の世界に入るべく、イングランド中北部サウス・ヨークシャー州ドンカスターに本拠を構える“グレート・ノーザン鉄道”にて、鉄道エンジニアとしての修行に入った。ところが、上流階級の生まれらしく大人しかった彼にとって、鉄道の現場に於ける徒弟生活はあまりにもハードだったようだ。W.O.は、職場の人間関係に耐え切れずグレート・ノーザン鉄道を退職。1910年に“ナショナル・モーター・キャブ・カンパニー”に職を得るに至った。
 そして、ナショナル・モーター・キャブ・カンパニーで働く傍ら、兄弟の1人であるホーレス・M.ベントレーの影響で自動車やモーターサイクルのレースにも興味を抱くようになったW.O.は、1912年にロンドン・ウエストエンドにて、フランス製のガソリン自動車“DFP”の輸入権を持っていた“ラコック&フェルニー”という小さな会社をホーレスとともに買収する。ここでW.O.は、DFPに自らチューニングを施したレーシングカーの開発を指揮したほか、自らワークスドライバーもかって出たという。
 W.O.によってチューニングされたDFPは次第に頭角を現し、ついには、2リッター以下クラスでレースに参戦していたDFP本社のワークスマシーンよりも速くなってしまう。W.O.のチューニングしたDFPのエンジンで最大のアドバンテージとなっていたのは、彼自身が開発に関与したピストンとされる。W.O.はアルミニウムに銅を混ぜた軽合金という、当時としてはかなり斬新な新テクノロジーを投入していたのだ。さらにその翌年、第一次世界大戦の勃発とともに、有名なRAF(イギリス空軍)の前身たるイギリス海軍航空隊に技術将校として従軍することになったW.O.は、自身が開発したアルミ合金製ピストンを航空機用のエンジンにも応用してみせることになる。そして、海軍にて彼が設計した空冷星型9気筒エンジンは約4000ユニットが量産され、ソッピース戦闘機やアヴロ爆撃機のパワーソースとして正式採用。当時のイギリス製軍用機に採用されたエンジンの中でも最高傑作のひとつであるという評価を受けつつ、第一次大戦中を通じて幅広く活躍することになったのである。
 第一次大戦が終結したのち、W.O.は自動車設計の世界に復帰、念願であった自身の自動車メーカー立ち上げを志すようになる。そしてW.O.は、メーカーの創立から2ヵ月後となる1919年10月のロンドンショーにて、彼の名を冠した最初のモデル“3Litre”を発表。そののち2年近い研究期間を経て、1921年に正式リリースするに至った。
 W.O.の作ったクルマは、まるで蒸気機関車のように雄々しく、底知れぬパワーに満ち、そして恐ろしく速かった。しかも、当時のスポーツカーには望めなかった頑強さも備えていた。また、プリミティブだが機能美に溢れる外観や、麻縄を巻いたステアリングに大径の計器類がずらりと並ぶインテリアなど、視覚的にも野趣に満ちた魅力は、自身が熱心なエンスージァストであるW.O.のテイストが生かされたものだったのだ。そもそもW.O.は、自らのクルマを富裕層向けのラグジュアリーカーにしたいとは、微塵も考えてもいなかったという。処女作3Litre、そしてその後継車となった各モデルは極めて高価な超高級車ではあったものの、同時に紛れもないピュアスポーツであった。そして、当時のスポーツカーレースに於いて、未来永劫の伝説として語られるような、輝かしいヒストリーを築いてゆくことになるのである。

W.O.ベントレーが、自身の名を関した初のモデルとして、1919年に発表した“3Litre”。写真のクルマは、クルーの本社ショールームに展示される、現存最古の3Litre(CH./No002)である。

 

ロンドン近郊クリクルウッドに設けられたベントレー・モーターズの工場内。当時としても超高級車だったゆえに、もちろん1台1台が、熟練工の手によって入念にハンドメイドされていた。

「フライングB No.001」(2008年刊)に掲載された記事に加筆修正しました。 掲載された情報は、刊行当時のものです。