BENTLEY CHRONICLE PART1 : #003
BENTLEY CHRONICLE PART1
W.O.ベントレーとベントレー・ボーイズの時代 #003
こちらも1924年のル・マン、ブガッティ・サーキットのピット前にて。優勝マシーンとウイニングクルー、そしてその中央にはW.O.ベントレーが、いつもの穏やかな笑顔を浮かべて写っている。
■ベントレー・ボーイズの誕生とル・マンへの挑戦
W.O.の製作したベントレーの各モデルは、程なく当時の裕福なモータリストたちから熱狂的な支持を受けることになった。新しい技術や文化がヨーロッパに花開いた1920年代。“ベル・エポック”と呼ばれたこの時期に、自動車という新時代の乗り物に魅せられた最先端の若者たちにとって、ベントレー・スポーツカーが生来持つ圧倒的なまでの高性能と孤高のヒロイズムは、ほかに代え難い魅力だったのだろう。当時のベントレーのカリスマ性を何より高めたのは、モータースポーツに於ける大活躍。発信者であるW.O.ベントレー自身も、DFPのチューニングでレースに勝ち、ビジネスの面でも一定の成果を収めた経験から、モータースポーツの成功が商業的にも大きな影響をもたらすと確信していたのだ。
そして、この時代の若者たちにとってのアイドル的な存在となったのが、それぞれが自ら自腹を切って購入したベントレー車を持ち寄ってメーカー直属のワークス・ティームを結成、ル・マンやブルックランズなどのスポーツカーレースを席巻した“ベントレー・ボーイズ”たちである。彼らは、ベントレーの創るクルマの魅力はもちろん、W.O.ベントレーその人の穏やかな人柄にも強く惹かれた男たちだった。
ベントレー・ボーイズの面々は、いずれも劣らぬ個性の持ち主である。まずは、ロンドン市内にてベントレー車のディーラーを営んでいたキャプテン・ジョン・ダフ。優秀な細菌学者にして、勇猛果敢なドライバーでもあったJ.ダドリー・ベンジャーフィールド博士。ボーイズきっての美男子として人気のあった“ティム”ことサー・ヘンリー・バーキン。障害物競馬のスター騎手、ジョージ・デューラー。英国AUTOCAR誌所属のジャーナリストだったサミー・デーヴィス。不死身の男と呼ばれたグレン・キッドストン。そして、南アフリカのダイヤモンド鉱山主でベントレー社の会長も引き受ける一方、ル・マンでは1928~1930年まで3連勝を果たしたウォルフ・バーナート大佐など、きら星のごときビッグネームが一堂に会していた。それぞれ裕福な上流家庭に生まれ育ったベントレー・ボーイズだが、彼らはその地位に安住するような俗物ではなかった。そして、高い教養と進取の気性、さらに熱きチャレンジングスピリットを持ったベントレー・ボーイズは固い友情によって結ばれ、ともに伝説を築き上げたのである。
ベントレー・ボーイズの操縦するベントレー各モデルは、今なお世界最大・最高のスポーツカーレースと称されるル・マン24時間レースに於いて、1924年の初優勝を皮切りに、1927~1930年と総計5回もの総合優勝を飾るなどの歴史的な大活躍を見せた。こうしてベントレーは、創成期のル・マンに於ける最強のコンストラクターとなったのである。そこでここからの頁では、W.O.ベントレーとベントレー・ボーイズがル・マンに挑んだ栄光の足跡を記しておきたい。
※「フライングB No.001」(2008年刊)に掲載された記事に加筆修正しました。 掲載された情報は、刊行当時のものです。