HERITAGE——<br>Jiro Shirasu & the Bentley 3 Litre Speed Model XT7471

HERITAGE——
Jiro Shirasu & the Bentley 3 Litre Speed Model XT7471

By Adminflying b Magazine

Jiro Shirasu and his Bentley
白洲次郎と彼のベントレー

いまから80年以上も昔。一人の日本人青年が英国で1台のベントレーを手に入れた。彼の名は白洲次郎。

日本ではまだ、個人が自動車を所有するなど想像もできなかった時代、彼はこのベントレーを駆り、ヨーロッパを縦横無尽に走り回った。果たして、戦後の日本において「新憲法誕生の生き証人」と評されることとなるこの男は、若かりし日にベントレーのコックピットで、何を見、何を感じたのだろう。

 

Vintage 「ヴィンティッジ」

随筆家 白洲信哉は、祖父が欧州旅行のときに撮影した1枚の写真と同じ場所に立ち、
祖父と同じ目線でベントレー[XT7471]を見つめている。
いったい白洲次郎にとって、ベントレーとはどういう存在であったのだろか?
かつて祖父と同じルートを旅した経験をもつ彼に改めて語ってもらうことにしよう。

 

text:白洲信哉
photo:前田恵介
Translation: Mako Ayabe and Michael Balderi
取材協力:くるま道楽 株式会社ワク井商会 phone:03-3811-6170 URL:www.bbvideo.jp/kurumadoraku/
旧白洲邸 武相荘 phone:042-735-5732 URL: http://www.buaiso.com/

 

 

 祖父、白洲次郎は昭和60年、83歳で他界した。当時僕は大学1年で、亡くなった翌朝の報道を聞いて驚いたのを思い出す。「新憲法誕生の生き証人」「吉田元首相の懐刀」とかその死を大きく報じていたからだった。

「早いもので、夫白洲次郎が逝って今年(平成10年)の11月で十三回忌を迎えます。それなのに今頃また、なんだか妙に次郎がモテているようで驚いています」

 祖母が著書でそう綴っているように、僕もまったく同じ気持ちである。最近でも雑誌の特集など、僕が知らない祖父の姿が克明に記されている。GHQに「従順ならざる唯一の日本人」と言われたとか、「昭和の快男児」「ジーンズを初めて穿いた日本人」とか賛辞は枚挙に暇もない。しかし、僕が知っているのは、小遣いを沢山くれる(他の祖父母と比較して)やさしいお爺さんである。

 10年程前にあるTV番組で、祖父が英国留学中に乗っていたベントレーという車が現存し、しかもその車がバリバリと轟音をたてて、英国の田園地帯を颯爽と走っているのを見た。空撮された映像は、英国の美しい緑の風景と、ブリティッシュ・グリーンの車体とが共鳴しあっていた。

 祖父は昔話をしなかったこともあるが、僕が実感している祖父とその光景は、安易に重ならなかった。確かにまだ暗いうちにポルシェで出掛け、軽井沢までドライブしたり、京都くらいまではいつも車だった。一番の思い出は、高校の夏休みに軽井沢のゴルフ場で車の運転を教えて貰ったことだった。だが、その頃はお世辞にもスマートではなく、運転手付でメルセデスに乗っていた。ユニークだったのは、助手席にどっかりと座ってあれこれ運転について指示を出していた姿であった。運転することは、本当に大好きだったと思う。

 物語は続く。4年ほど前には、なんとそのベントレーが日本にあるとの情報を耳にし、埼玉県下のあるガレージを訪ねた。その車は、羽を広げた孔雀のように、圧倒的な存在感でゆっくりと歩いてきた。

 祖父が亡くなってしばらくして、町田市の家に孔雀が住みついた。夜、僕が帰ってきたら、暗がりにチラチラ光る蛍光色の孔雀に腰をぬかすほど驚いた。祖母は「あれはきっと次郎さんの生れ変り」と言っていたが、まるで祖父の生き写しの車を見て、ふとそんなことを思い出した。今から80年前の車は、当時のいや、現在の方が一層輝いているように美しかったのは、そんな記憶がした業なのかもしれない。ナンバーも同じ「XT7471」だった。それだけではない。この車は今でもラリーに出場し、時速100マイルで巡航できるという。

 はっとした。僕は古美術、特に焼きものが好きだが、それは大きく二つに大別される。一つは「鑑賞陶器」といい、中国の陶磁器に代表される鑑賞するための器。

 もう一つは日本で骨董と呼ばれ、使って真価を発揮するもの。手で触れ唇で感じ、日々愛でる世界である。僕は後者にはまっている。

 美術館にある茶碗や盃を見ると、悲しい気分になる。彼らは美術品の「終身刑」なのである。茶碗はお茶を美味しく飲むもの。盃はお酒を飲むもの。車は操るもの。判り切ったことなのだが、博物館では触ることも許されず、まして使うことなどもっての外である。彼らには使い手の愛情も、手の温もりも、お酒を満たすことさえ叶わないのだ。

 それは何も美術館に限ったことではない。高価であるとか、割ってしまったら大変だ、とかいって押入れの奥に大事にしまっておくコレクターも沢山いる。多くは将来の値上がりを期待して大事にはするのだが、心から愛してはいないのである。

 現、所有者である涌井氏は、ある自動車評論家のかたに「この車は日本にあるべきだが、自動車博物館などで遺骸のように展示するべきではない」とアドバイスされたという。

 涌井氏は伝世の名物茶碗のように、車の「一時預かり人」だと自任して、日々の手入れを怠らず、彼のガレージでは熟練したエンジニアが油まみれになって、丁寧に車の世話をしている。その姿がまた凛々しいのであるが、長年オイリーボーイの足となり、ときには過酷な鍛錬をともにした車は文化遺産である。そして、これからも大事にされ次世代へと受け継がれていくのであろう。

 涌井氏は言う。この車の物語に惚れてなんとしても手に入れようと思ったと。祖父と縁のあったある日本の大企業が、時を同じく購入を試みたが、前、所有者は頑として譲らなかったという。その違いはなにか?それはモノへのひたむきな愛情ではないか。熱病とも言える思い入れではないか。同じ様なことが古美術の世界でもある。「念じれば向うからやってくる」。祖母正子の言葉であるが、何事も熱望し四六時中夢をみて、達成するための努力は惜しみなくする。思いというのは言葉を発しないモノへも伝心するようである。これは僕の実感である。

 ベントレーは今でも輝きを放ち続けているブランドだが、草創期1920年代の約10年間に製造されたベントレーを、W.O.ベントレーと呼び特別な敬意を表す。全生産台数約3000台のうち、今でも3分の1強のヴィンティッジ・ベントレーがある。しかもその大部分は、同じ様に時速100マイルで元気に走れる状態にあるという。祖父の次郎は、頑丈無比なベントレーを1924年5月24日、この年のル・マン24時間耐久レースに同じ3リッター・モデルで優勝したジョン・ダフという花形レーサーから直接買ったとある。祖父は正しく生粋のベントレー・ボーイズであった。

 僕は祖父が夢中になったヴィンティッジ・ベントレーを眼にして感じた。日本の美術には例えば伝世の茶碗には来歴、つまりは箱書きとか旧所有者がはっきりわかっている。つまり、日本のそうした伝統と重ねると、その必然としてキャプテン・ダフから買わねばならなかったのであろう。英国も日本も伝統文化を重んじる国である。まだ端緒ではあったが、祖父の直感がそうした行動になったのではないかと思う。また、あるかたによると祖父は車に対して、「No Substitute」を求めていたという。正しくベントレーは「かけがえのない」ものであった。

 ヴィンティッジ・カーを愛すること。ここには高尚な気持とか,古いものへの畏敬の念、尊敬や伝統が確かに存在する。しかし、僕がいつも共感するのは、数寄に生きている人々の楽しそうな笑顔や、心がドキドキ、ワクワクするその「生きている」という美しい感情表現である。

 先日の鹿沼でも先年の欧州旅行(ロンドンからターキーまでヴィンティッジ・ベントレーに乗り旅した)でも、ベントレー・ボーイズは、「ジェントルマンはまた、スポーツマンでなくてはならぬ」を今もって実践し、よきアマチュアリズムをも、引き継いでいた。

 「人生如何に生きるべきか」それは個々の命題である。生きることの達人、遊ぶことの目利きは、対象は何であろうとも……ワインは飲み、徳利は酒を注ぎ、車は風を切って疾走する。

 ヴィンティッジ、それはいつの世にも羨望の対象である。そして、数寄に生きるものたちが、満ち足りた時間を共有するのである。

 

アルミ地肌むき出しのダッシュパネルに取り付けられた巨大なダイヤルを持つ魅力的なメーター。そして麻縄を巻いたステアリング。80年前の白洲次郎が見ていたのと同じ情景は、今なおファンを興奮させてやまない。

 

 

白洲信哉

1965年東京生まれ。過去に細川護熙元内閣総理大臣の公設秘書を務めたという経験をもつ随筆家。父方の祖父母に白洲次郎、正子、母方の祖父に文芸評論家の小林秀雄をもつ。また日本文化、古美術に関する造詣も深く、それらの伝承、保存に関する活動を積極的に行っていることでも知られている。著書に、自身が白洲次郎の欧州旅行の足取りを辿った「白洲次郎の青春」(幻冬舎刊)のほか、「白洲正子の贈り物」(世界文化社刊)、「小林秀雄 美と出会う旅」(新潮社刊)などがある。

※「フライングB No.001」(2008年刊)に掲載された記事に加筆修正しました。掲載された情報は、刊行当時のものです。